「中東にて」 菊池絵美 in the Middle East  by  Emi Kikuchi

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カテゴリ: su-fi-ismイスラーム神秘主義( 1 )


2005年 06月 06日

su-fi-ism イスラーム神秘主義


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スーフィズム = 真のイスラーム教徒となる道


貧しき者(ファキール P111他) = 心に神のみをおもう者



(この真意は、自我に惑わされず、神の意思を生きることである。その方法は、奇跡講座に記されている)


神を恋い慕う人々= 神秘主義の修行者たち

(「フィーヒ・マー・フィーヒ」 マウラーナ著 -「ルーミー語録」より-)

もし素っ裸になって太陽に身を すことができるなら、それに越したことはない。この太陽は肌を焦がしはせぬ。反対に真っ白にしてくれる。だが、もしそれができないのなら、せめて着物をできるだけ軽くして、太陽の温かみを味わうことだ。久しく苦味に慣れてきた身だ。少しは甘みを試してみるがよい。

(同著)

「汝らいずこに顔を向けようとも、必ずそこにのお顔がある」(クルアーン2章15)
この「御顔」は全世界を貫流し四方八方に流通し、どこまでも伸びてはてもなく、永遠に存続する。恋する人々(神を恋い慕う人々、すなわち神秘主義の修行者たち=スーフィー)はこの「御顔」にこそ己が身を犠牲にささげ、それに対して何の報酬も求めはせぬ。その他の人間は家畜同然だ。

(同著)

世捨て人は来世にひたすら目を向け、俗物は家畜小屋(この世)にひたすら目を向ける。だが、精神界の選良は来世にも目を向けず、家畜小屋にも目を向けぬ。彼がひたすら見つめるものは元始なるものである。彼らはあらゆる事物の太源を知っている。…最初をちゃんと見るだけで、最後は見る必要もない。最後はすでに最初の中にあって知られているのだ。しかしこういう人は少ない。最後だけ見ている人はちょうど中間にいる。家畜小屋の中にいる連中はまさに家畜そのものだ。

(同著)

どうしても(神を認識しようとする)努力をやめられずに、煌々たる神の光のまわりを、堪えがたい不安に駆られてぐるぐる回っている落ち着かぬ存在、それが人間というものだ。そういう人間を焼き焦がし、無と化してしまうもの、しかも理性にはどうしても据えられないもの、それが神というものだ。

(同著)

心中無一物の道・・・を選びさえすれば、・・・なんでもたやすく手に入る。この道を辿って、後でしまったと思った人など見たことがない。

(同著)

この世で、人が・・・獲得する知識は・・・もの(現世的事象)の知識であり、死んだ後(・・・自我の死・・・の)知識は霊性の知識である。「我こそは神」と知ることはものの知識であり、「我こそは神」に成ることは霊性の知識である。

(同著)

本当のスーフィーの例

ブハーラーのナッサージ師は偉大なスーフィーであった。・・・師は文盲だった。・・・師は言ったものだ、「わしはアラビア語を知らぬ。そなたたち、コーラン=クルアーン の文句でもハディースでも翻訳して下さらぬか。わしがその意味を解いて聞かせよう。」と。・・・解釈はいつも「この文句を言われた時、預言者(ムハンマド)はこれこれの精神状態におられた。その精神状態の特徴はこれこれであった」という言葉で始まり、次第にそのような精神状態の段階を説明し、次いでそれに至る道、つまりどうしたらそのような精神的高みに昇れるかを詳しく説明されるのが常であった。

(同著)




・理屈からスーフィーを語ると...

 歴史的に、キリスト教、ヘレニズム、インド思想などの影響の下に生成、発展していったことは否定できない、とイスラーム事典に書かれているし、シーア派12イマーム派更にはイスラーム及びイスラーム教徒の希望と救いの光・現代型ルーミーでおられようハワイ大学のマジード・テヘラニアン博士も、創価学会現会長池田大作氏との人類平和や異文化異宗教の相互理解などをテーマとした「21世紀への選択」においてこのように述べられている。「ルーミーは、異なる地域で誕生した文化的遺産――ブッダ(釈尊)の教えとイスラームの教えを結びつけ、2つの文明の橋渡しをする働きを成し遂げたのです。」「スーフィーの教えはイスラームの比喩と象徴を用いていますが、その中身はまったく普遍的で、多文化的です。――法の条文よりも法の精神を、シャリーアよりもタリーカを、理知よりも心理を、外形や儀式よりも内的真理を、偶像よりも真髄の礼拝を、生の差異よりも存在の統合を、重んじることでした。」(ちなみに、それに対し、池田大作氏「ルーミーはこう述べていますね。“10個のランプが、同じ場所でともっている。(ランプの)外形は、みな、それぞれ異なっているが、その明かりを、じっと見たとき、その光がどのランプのものなのか、見分けることはできない。(それと同じく)精神の領域には、いかなる分断もない。そこには、いかなる個も存在しない。”と。人類の統合さえ構想していたといわれるルーミーが訴えているように、例え百の国、千の民族があろうとも、その多様性の奥には必ず「人間性」という普遍の光があるはずなのです。人類の心にこの光をともし、その光を互いに寄せ合うことが、今こそ求められています。またそれは、民族や文化・伝統といった多様性を、真に生かす道であるといえないでしょうか。」また、同書における池田氏の別の会話もご紹介しておく。「ハーバード大学のヤーマン教授と語り合った折り、教授は「スーフィズムは、実は仏教との出会いによって、その“瞑想”などの思想に影響を受けたのではないかと思う」といわれていました。」)

 現代、各アラブ諸国の反政府系ムスリム達は、政治に関与せずムフティー(国を代表するイスラーム法学者のこと)等の要職につきがちな神秘主義のシュユーフ及びその支持者達に反感を抱きがちであるが、ルーミーは、当時の殿様(パルヴァーネ宰相)を慕う理由を、このように述べている。「わしが殿様が好きなのは、決して現世的な事情のためでもなく、またあの方の地位や知識や行動のためでもない。彼の属性ではなく、彼を彼なるがゆえに愛する」(其の17)。


余談であるが、真理=を目的とする神秘主義の人々と、“イスラーム”を目的とする人々との狭間で、何が真のイスラームの目的であるのか、と考え始めた私は、先方の人々については“ラスト・バリア”で十分明白なので、後者の人々の見解を伺うために「イスラーム神秘主義が他宗教との融合であるのならば、なぜイスラーム教徒内において彼らがほかに群を抜いて真理を“知って”いるのか。」「“預言者時代の真のイスラーム”を唱えているが、では、真のイスラームとは、そして、真のイスラームの真の目的とは何か。真理=神への到達(つまり”知る”こと)か、それとも、“イスラーム”か。(となると、そもそも、あなたたちにとっての“イスラーム”の概念は何か。)」という2つの疑問を持ってとある反神秘主義のシェイフをたずねたが、神秘主義者が真理を“知って”いる、という前提の私と、神秘主義者は真理を知らない、という前提の彼とは話が全く通じず、質問を述べることなく退散したのであった。(その後、その中間の立場におけるシェイフにこの質問をぶつけたところ、「イスラーム神秘主義者は間違った方法で真理=神に到達している」とのことだった。しかし、間違った方法でも真理=神に到達する人々と、正しい方法で真理=神に到達できない人々、究極的に真理=神を”知る”ことが宗教の目的であるならば、先方を選ぶべきではないか。と突き詰めていくと、それではなぜイスラームか-彼は、イスラーム含めた全宗教の目的を、真理=神を”知る”為と言ったのだ-、という議論になり、疑問は募るばかりである。)
その後、有名なタリーカの後継者などあらゆる宗派のシュユーフを訪ねているがいまだに回答が得られていない。 (2005年夏)

(以後、回答が得られた。「すべての宗教の究極の目的は”真理=神への到達=真の自己への気づき”であるが、各人は環境や魂レベルによりそれぞれに見合った宗教・宗派を選ぶ。しかし、それを達成する=真のムスリムとなる のは、ほんの一握りなのである」 神秘主義の人々の言葉。2005年秋)

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by Emi_Kikuchi_jp | 2005-06-06 11:59 |  su-fi-ismイスラーム神秘主義