「أنا الحق」 「私は
真理である」
「愛に狂喜する者にとっては、唯一なるものはただひとつとすることで足りる」
(ハッラージュ最後の言葉)
「受け入れられる存在ならば、一般の人間に拒まれても、拒否されるべきではないし、もし拒否されるべき存在であるなら、たとえ、人々に受け入れられても、受け入れられるべきではあるまい」
「あなたは”我”=アナー を自らの中に持ちこみ、私は、己から遠ざけた。それで、私に慈悲が、あなたに呪いがやってきたのだ。己たることを通すことは良くないことであり、自我を己から遠ざけることこそ最良の道といえるのだ」
(「イスラーム神秘主義 聖者列伝」 ファリードゥ・アル=ディーン・ムハンマド・アッタール著 藤井守男訳 国書刊行会 より)
「そなたが死んで神が残るか、神が死んでそなたが残るかだ。」 (
ルーミー語録 其の6より)
「我こそは神(神秘家ハッラージュはこの言葉によりバグダードで処刑された)、という言葉であるが、世人は普通これをとんでもないことをいったものだと考えている。だが、これは実は謙虚さの極致で、われこそは神の僕、と言う人(一般のムスリムは究極のムウミンを神の僕であると考え、子供にこれを名として与えることも多い)は二つの存在者を認めている(=二元論。”彼は神”も同様) が、我こそは神、と言う人は自己を完全に無化し全く空無に消え私は無だ、一切は神だ、神においてほかに一物も存在者はない、私は正真正銘の非有そのもの、無そのものだということである。これこそ謙虚さの極致ではないか。だが世間一般の人にはこれがわからない。」 (同著 其の11など)
我々はいまだに残り、神の僕にさえなりえていないのではなかろうか。
(似たような話がキリスト教にもある。「ステパノが石打刑に処せられたのも、
イエスを「主」(「神の名」)と告白して神を冒涜したからであろうか(行伝6・11、7・56,59参照)。」「
トマスによる福音書」より」)
。。。しかし、なぜ彼がこのような境地に陥ってしまったのか、そしてなぜこのような最期を遂げたのか、真実を知る者はごく少数なのであった。。。