「中東にて」 菊池絵美 in the Middle East  by  Emi Kikuchi

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2005年 09月 23日

The Gospel of Thomas トマスの福音書

イエスも参照

まえがき
「トマスによる福音書」著者の荒井献博士は、「グノーシス主義の立場から創作され、イエスの口にいれられたものと思われる」と、トマスによる「知られざるイエスの言葉」についてまえがきで述べられている。同博士のような、聖書(外典含む)や歴史・思想・背景にお詳しい方がこうおっしゃっておられるにもかかわらず、それでもここにトマスの福音書を引用させていただきくことをお許し願いたい。同博士の同書におけるイエス語録の解釈は真に素晴らしく、ここに、(面識はないが)多大なる尊敬の意を表させていただきたい。


イエスの言葉(「トマスによる福音書」から引用。なお、同様の新約聖書の各福音書の記述も、あえて記さないことにする。)とコメント


「御国はあなたがたの只中にある。そして、それはあなたがたの外にある。あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが父の子らであることを。しかし、あなたがたがあなたがた自身を知らないなら、あなたがたは貧困にあり、そして――貧困である。」(3)

人々を貧困にしているのは誰か。そして、われわれの多くがいまだに貧困にある。
イスラーム神秘主義では、神の御前に貧困=ファキール-(索引P55)-となる)


「あなたがたの口に入っていくものは、あなたがたを汚さないであろうから。しかし、あなたがたの口から出てくるものは、あなたがたを汚すものである」(14)


「あなたが自分の目にある塵を取りのぞけば、そうすればあなたは(はっきり)見えるようになって、兄弟の目から塵を取りのけることができるであろう」(26)


「もし盲人が盲人を導くなら、二人とも穴に落ち込むであろう」(34)

シェイフ参照


「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、――男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、を女(でないよう)にするならば、――一つの目、手、足、像の代わりに一つの目、手、足、像をつくるときに、そのときにあなたがたは、(御国に)入るであろう」(22)

これを禁欲で目指すのがグノーシス派やヒンドゥー教、仏教などで、これを神への愛によって目指すのがイスラーム神秘主義であろう。


「パリサイ人や律法学者たちは知識の鍵を受けたが、それを隠した。彼らも入らないばかりか、入ろうとする人々をそうさせなかった。しかしあなたがたは、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(39)


「過ぎ去り行く者となりなさい。」(42)


「アダムからバプテスマのヨハネに至るまで、ヨハネより大いなる者はいない。あなたがたの中で小さくなろう者が、御国を知り、ヨハネより大いなる者となるであろう。」(46)


「二人の者が同じ家でお互いに平和を保つならば、山に向かって、「移れ」と言えば、移るであろう。」(48)

イマーム・アリーの想像画にはよく彼の前にライオンが座っている。イスラーム神秘主義のマスターがしばしばライオンをしずめる。結婚し、かつ単独者になることも可能である例である。(勿論、同じ家を一人の人間とする解釈も出来る)


「あなたがたはあなたがたの御前で生きている者を捨て去り、死人たちを語った。」(52)


「あなたがたが生きている間に、生ける者を注視しなさい。あなたがたが死なないように。そして、あなたがたが彼を見ようとしても、見ることができないであろう。」(59)


「あなたがたが屍になって食われないように、あなたがたも自分のために安息のうちに場所を求めなさい。」(60)


「「主はまず死んで、(それから)よみがえった」と言う者は間違っている。なぜなら、彼はまず復活し、(それから)死んだからである。もしある者がまず復活を得ないなら、彼は死なないであろう。」(「ピリポ福音書」22)


「すべてを知っていて、自己に欠けている者は、すべてのところに欠けている」(67)


「あなたがたが憎まれ、迫害されるならば、あなたがたは幸いである。そしてあなたがたが迫害された場は見出されないであろう」(68)

イスラームでも、ムウミニイーン(信仰の厚い人々)は現世で迫害されると言う。そして彼らこそがアハル・アル=アーヒラ(来世の民)であると言う。

「飢えている人たちは幸いである。欲する者の腹は満たされるであろう」(69)


「あなたがたがあなたがたの中にそれを生み出すならば、――あなたがたを救うであろう。――それを持たないならば、――あなたがたを殺すであろう」(70)


「主よ、泉の周りには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」(74)

「神の光の周りを――ぐるぐる廻っている落ち着かぬ存在」 (「フィーヒ・マー・フィーヒ」 マウラーナ著 -「ルーミー語録」 其の9 より-)

泉の中にいる人物、そして神の光となった人物をスーフィーでは”真のムスリム”とする。


「衣蛾が近寄って食わず、虫が食いつくさぬ所に、朽ちず尽きることのない宝を求めなさい」(76)


「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(77)

捜し求めなくともそこどこに“在”られるのだ。(「おおよ」と一言祈れば、「私はここにいる」という言葉が何千回もこだまする -マウラーナ 「ラスト・バリア」より- にも共通しよう。)


「あなたがたは、何を見に野に来たのか。柔らかい着物をまとった人を見るためか。彼らは柔らかい着物をまとっている。そして、彼らは真理を知ることができないで{あろう}」(78)

荒い着物を着た人(聖職者)も同様であろう。また、着物を変えて変わる人は本当ではない。


「はらませなかった胎と、ふくませなかった乳房とは幸いだ」と言う日が来るであろうから」(79)


「私に近いものは火に近い。――遠い者は御国から遠い」(82)


「像(複数)は人間に現れている。それらの中にある光は父の光の象の中に隠されている。彼は現れるであろう。彼の像は光によって隠されている」(83)


「一つの身体に寄りかかっている身体はみじめである。そして、この両方に寄りかかっている魂はみじめである」(87)


「御使いたちと預言者たち があなたがたのもとに来る。――あなたがたに属するものを与えるであろう。――あなたがたもまた、――手中にあるものを与える。そして、――自らに、どの日に彼らが来て、彼らのものを受けるかを言う。」


「なぜあなたがたは杯の外側を洗うのか。――内側を作った者が、また外側も作ったものであることがわからないのか」(89)


「聖なるものを犬にやるな。真珠に豚を投げてやるな。」(93)

「真髄のみ取って骨はくれてやったわい」(表現不確か。見つけ次第修正 「フィーヒ・マーフィーヒ」 マウラーナ著 -「ルーミー語録」 より-)


「探す者は、見出すであろう。(また、門をたたく者は、)開けてもらえるであろう。」(94)


「「どの日に御国は来るのでしょうか。」「それは待ち望んでいるうちはくるものではない。」」(113)

救世主も同様か。


「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。」(114)

イエスによって女性は認知されたのである。(それを、教会がまた否定した。教会は、いまだにユダヤ教、ユダヤ人キリスト教、初期カトリシズムを引きずっているのだ)
しかし、真理からすれば、人間間の問題など取ってたらぬものだろう


「あなたの目の前にあるものを知りなさい。そうすれば、あなたに隠されているものはあなたに現れるであろう。なぜなら、隠されているもので、あらわにならないものはないからである。」(5)

「はじめのあるところに終わりがある。」(18)
「グノーシス者にとって終末とは「始源」」(荒井博士)

始まりを見出すことは終わりを見出し、終わりを見出すことは始まりを見出すことなのだ。始まりは終わりであり、終わりは始まりであるからである。


「あなたがたは一体、終わりを求めるために、はじめを見出したのか。なぜなら、はじめのあるところに、そこに終わりがあるであろうから。始めに立つであろう者は幸いである。そうすれば、彼は終わりを知るであろう。そして死を味わうことがないであろう」(18)


「成った前に在った者は幸いである」(19)


「「存在」が「当為」に先行する」(荒井博士のグノーシス者への解説より)


「覚知者は、「二人の主人(至高なる「父」と創造神)に兼ね仕えることはできない」のである。」(同博士の解説より)


「「父にして母」の至高者」(同上)


この当たり前のことがいまだに当たり前でないのである。に性別がないのは承知でありながら、「彼」と男性形を使わねばならないことを理不尽だと中東にきてからずっと思っていたし、これを鼻にかけて便上する人達も存在する。しかし、セム語が男性形・女性形とあらゆる単語を性別に分けるので、セム的宗教では、感覚的に、力強く守り抜くイメージで、唯一神が男性形で父、彼等と表現されたのであろう。勿論、真理から見れば、人間の言語は限られており、人間に未知な幽玄界のことを在るがまま表現することは、不可能なのである。日本語では、「神」と表現し、セム系の言語より両性及び性を超えた存在というイメージがしやすいであろう。なお、イスラーム神秘主義においては、アラビア語の「彼」を表す「フア」は大変神秘的に捉えられている。(「トマスによる福音書」P318も参照)
旧約聖書の格言集の“遊女” などの表現にもいえるが、男性への教訓として女性を用いて語られる言葉は、女性の読者に関しては、それを男性に置き換えて読まれるべきであろう。(「ルーミー語録」其の20も同様。元来男達に語っておられるからである。これに関してはここを参照)

ちなみに、教会が聖書を捏造した、と主張するイスラーム教シュユーフも、結局聖書研究に、その批判対象である教会のセレクトした”正典”のみを用いているが、”外典”も存在すること、そして、教会を批判するならば”外典”こそ研究すべきであろう。”外典”には、このトマスの福音書のように、イスラームのイエスの概念に通じるものを多く見出せるのだから・・・。


尚、旧約・新約聖書の真意は「奇跡講座」にある。禁断の果実の物語の真意はP88参照。使徒たちの誤解による聖書の記述については、第6章 愛のレッスン 14 参照。
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by Emi_Kikuchi_jp | 2005-09-23 07:29 |  GospelThomasトマス福音書


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